
「いっしょに生きていく」思いとともに
平野 千晶(ヒラノ チアキ)
1959年名古屋市生まれ。
児童精神科医。医療法人成精会刈谷病院理事長。精神科医療ヘの理解を深める講演多数。
一般財団ラボ国際交流センター理事。
元ラボ会員。
国際交流はいつまでも心の糧
1974年夏,高校1年生の私は,アメリカはワシントン州のCornwall家に1か月ホームステイをしました。学業への影響を心配する両親に,どうしても行きたい,行かせてほしいと頼み込んでの参加でした。ホストファミリーは,製材業に従事するお父さんとお母さん,私より1歳上のホスト・ブラザーのSheldonと,1歳下の弟のJeffで,この4人家族の一員となりました。このときに,現在につながる転機があったように思います。


(下)大学1年の夏,地方紙の取材を受けた
ひとつは,日本の父親からの手紙。父とは仲がよくて,親子でよく話しましたが,手紙をもらうのはこのときがはじめてでした。「この旅を通じて,きみが成長することを心から願っている」。はじめて父から受けた「おとなのことば」が,おとなの目で自分をみつめるきっかけとなりました。
ふたつめは,感謝の気持ちをことばや態度であらわす習慣が身についたこと。ホストファミリーの両親は,とてもよくしてくれました。会ったばかりの自分へのさまざまな思いやりが,とてもありがたく感じられ,日本で両親から受けてきた愛情についても考えました。また,アメリカの社会では普通ですが,家族間でも“Thank you.”をよくいいます。荷物を運ぶお母さんをさりげなく手伝ったり,ドアを開けたりしていました。それらが,とてもすてきなことに映り,まねをしてひと夏を過ごしました。帰国後の私の態度の変化を,両親は,「おとなになった」と評価してくれたようです。
高2の夏,Sheldonが来日。布団を並べて寝起きをして,将来の夢から異性への思いまで,いろいろ語りあいました。多感な時期の貴重な1か月だったと思います。
1978年,医学部に入学した年の夏休みに,Cornwall家で過ごしました。Sheldonはひとりで別の町で暮しており,あまり会えませんでしたが,懐かしいアメリカの両親との楽しい1か月を過ごしました。4年後の再訪問が話題となり,地元新聞の取材も受けました。残念なのは,その後,Sheldonは病気で,弟のJeffは交通事故で亡くなりました。アメリカの両親の気持ちを思うと,いまでもとてもせつなくなります。
心の問題を,いっしょに
大学卒業後,愛知県内の総合病院で研修医となり,数か月ごとに病院内のいろいろな診療科を回り,診療を体験しました。
多くの患者さんは治療や看護によって病気やケガがよくなりますが,そのかいなく亡くなられる方もみえます。子どもの死を看とるつらい瞬間に立ちあうことも。ガンの末期状態など長期の闘病によって,不安や焦燥に苦しみ,生きていく意欲をもてなくなってしまう患者さんもおられました。このような患者さんとの出会いから,身体の治療以上に「心のケア」に興味をもつようになりました。精神科を選んだのも,「生きていれば何とかなる」「病気になっても,いっしょに生きていける」という領域でがんばりたい,患者さんの心の問題に向きあえる医師になりたいと考えたからでした。
私は,精神医学のなかでもとくに,児童精神医学を専攻しました。これには,ラボで幼い子どもたちとの活動が影響しているとも思っています。その頃,日本の児童精神医学はほかの先進国と比較して20年遅れているといわれていました。そこで思い立って,カリフォルニア州大学ロサンゼルス校(UCLA)の神経精神研究所(NPI)に留学を決めました。すでに結婚しており,子どももふたりいました。妻と幼い子どもたちとの外国生活はたいへんでしたが,2年10か月の滞在中,多くの人に助けられましたし,子どもを通じての新しい出会いもありました。
地域と一体となった精神科医療を
帰国後6年ほどはほかの病院で勤務しましたが,2001年から精神科単科の刈谷病院で,児童精神科だけでなく,認知症やアルコール依存などすべての精神科診療に関わりました。2006年から院長に就任し,2010年からは理事長・院長兼任となって,病院の経営・管理の仕事もしています。
精神科の治療では,長期間の強制的な入院治療があたりまえだった時代も長くありましが,現在では入院期間をなるべく短くして,可能な限り通院で療養していくことが一般的となってきています。そのためには,できるだけ早期から適切な治療を行なうことが第一なのですが,それだけでは十分とはいえません。患者さんやご家族に病気や治療についての正しい理解をしていただくことや,職場や学校などの環境についても,精神科の病気についての誤解や偏見をなくしていくことが重要になります。このためには,精神科病院が地域に開かれた,だれもがかかりやすいものになることが必要です。そのくふうとして,刈谷病院では,地域の人びとと協力して行なう,楽しい「あったかハートまつり」というイベントを毎年開催してきました。
そして一昨年,これまで以上に地域に開かれた,地域と一体感のある精神科医療の実現をめざして,新しい病棟と外来棟を建設しました。児童精神科の待合室には,『ぐるんぱようちえん』の絵を壁画にしました。さまざまな悩みや生きにくさを抱えて精神科を訪れた子どもたちとその家族の方が,自分らしさを失わずに困難を乗り越えていく「ぐるんぱ」の姿に,少しでもエネルギーを感じてもらえたらと願って壁画に選びました。この絵を描かれた堀内誠一氏のご家族の協力に感謝いたします。

ラボでの経験がつながりを生む

私はラボで人と人とが出会い,つながっていくことの喜びを学びました。年齢の異なるメンバーでなにかをつくりあげる体験は,成長の過程でとても重要であると考えています。地域からの依頼で,子どもの心の健康について講演する機会がある折には,ラボのポリシーをお借りして,「ことばはこどもの未来をつくる」と話しています。
障害をもつ人が安心して暮らせ,子どもがのびのびと育つ環境について考えることは,その地域で暮らすすべての人にとって,夢をもって活躍できる社会を考えていくことにつながります。産業の高度化と生活の近代化にともない,地域社会の崩壊と家庭の機能低下がすすんでいます。インターネットなどの技術は進歩しているのに,一人ひとりの孤立感,疎外感は強まり,社会の閉塞感が高まって,人びとの健康をむしばんでいます。地域社会の再生は,未来にむけてたいせつな課題だと思います。
私の仕事や活動の多くの部分で,ラボでの経験がベースになっています。現在,ラボ活動をしているみなさんは,未来へ向けてのたいせつな体験を蓄積しているのです。さまざまな出会いをたいせつにして,心から楽しんでもらいたいと思います。
(この特集記事は,公益財団法人ラボ国際交流センターの機関紙「ラボの世界」Vol.259より,執筆者本人の許可を得て転載いたしました。)