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story今月のお話

John Manjiro Was Here ジョン万次郎物語

2021年12月の紹介

John Manjiro Was Here

ジョン万次郎物語

Manjiro: Look!
万次郎: 親方っ! 見てください!
The waves are darker over there!
海の色が変わった!
Denzo: That's what we're after! A school of fish, horse mackerel, I'll bet.
伝蔵: そうじゃ,あれがアジの群れじゃ!
Goemon, Toraemon, pull on those oars!
五右衛門,寅右衛門,こぎ寄せろ!
Jusuke, get the longlines ready!
重助,はえ縄の用意じゃ!
Jusuke, Toraemon, Goemon:  Oh!
重助・寅右衛門・
五右衛門:
おお!
Denzo: Good job, Manjiro!
伝蔵: でかした,万次郎。
You've got sharp eyes.
いい目をしておる。
Narration: Our story begins in the Province of Tosa. It was late in the Edo Period, 1841
語り: 西暦1841年,江戸時代の終わりごろの土佐でのこと。
I, Manjiro, was in my fourteenth year.
私,万次郎は14歳になりました。
In January, I had joined the crew of a fishing vessel that was heading out to sea.
その正月,5人乗りの船ではじめて外海(そとうみ)の漁に出ました。
I was in charge of cooking and helping the others.
仕事はいちばん下っ端のかしきでした。

 土佐(いまの高知県)に生まれた万次郎は,家族の生活を支えるために漁に出ます。けれども万次郎と仲間の乗った小さな漁船は黒潮に流され,絶海の孤島・鳥島にたどり着くことに。そこで5カ月を生き延びたある日,幸運なことにアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられました。寄港したハワイで万次郎以外の4人の仲間は船を降りますが,万次郎はホイットフィールド船長に誘われ,アメリカに行くことを決意します。アメリカ・マサチューセッツ州フェアヘイヴンに住むことになった万次郎は,学校で学んだり,教会に通ったり,捕鯨船で必要な技術を身につけたりと,アメリカの生活に馴染んでいきます。捕鯨船に乗って数年の航海にも出ました。やがて,どうしても日本に帰りたかった万次郎は,カリフォルニアの金鉱でお金を稼ぎ,ハワイに暮らしていた伝蔵と五右衛門とともに,日本に帰国します。帰国した万次郎は,アメリカの暮らしや文化,英語を日本の人々に伝えたのでした。

 アメリカで暮らした最初の日本人である,ジョン万次郎こと中浜万次郎(1827-1898)は,日本に帰ったときには24歳になっていました。鎖国状態だった日本を約10年間離れ,10代という多感な時期をアメリカという異文化のなかで過ごしたことになります。万次郎が異文化のなかで,たったひとりで多くのことを経験できたのは,対等に付き合ってくれた人々のおかげでもありました。帰国後に万次郎が描いた捕鯨船の絵には,「E PLURIBUS UNUN」というラテン語のことばがありました。現在のアメリカ合衆国の紋章やコインにもあるこのことばの意味は,「Out of many, one(多くのものからつくられたひとつ)」という意味です。万次郎がアメリカで体験したことは,まさに民主主義や自主独立の精神といえます。

 万次郎が帰国して間もなくペリー艦隊が日本にやってきて開国を迫り,1854年には日米和親条約をアメリカと締結し,日本は開国することになりました。開国後,万次郎はアメリカに渡る咸臨丸に乗って勝海舟や福沢諭吉を案内したり,大山巌の普仏戦争視察に同行したりしました。また日本中を駆け回り,通訳や英語教師,捕鯨などをして,日本が大きく変化した激動の時代に活躍したのです。

 日本にアメリカを紹介した人物として,日本人の記憶に残る万次郎。万次郎が言う「どんなことがあっても,道は自分できりひらくもの」という強い信念は,現代を生きる私たちにも,たいせつなメッセージとして響きます。